On Multiple Realities

いろいろ書きます

文献

 フライヤーとヴィーゼに関する本

Soziologie und die Bildung des Volkes: Hans Freyers und Leopold von Wieses Position in der Soziologie und der freien Erwachsenenbildung waehrend der Weimarer Republik

Soziologie und die Bildung des Volkes: Hans Freyers und Leopold von Wieses Position in der Soziologie und der freien Erwachsenenbildung waehrend der Weimarer Republik

 

 

フーコーの主体化論

・M.フーコーにおける《主体化》の主題

http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/handle/11094/10768

 

・後期フーコー:権力から主体へ

後期フーコー 権力から主体へ

後期フーコー 権力から主体へ

 

ビオスとは、現実の経験の諸様態、すなわち世界の現出の諸様態として規定される。他方テクネーは、ビオスをエートス(倫理・行為の様態)へと転換する媒体ないしは蝶番である。このテクネーとビオス、あるいは経験と訓練の二重体こそが、制度における主体の変容の可能性の場を指し示す。(15-16)

『監獄の誕生』についてのフーコー自身のコメント「権力の自動性、権力がそこに体現される装置の機械的性格などは、断じてこの本のテーゼ(中略)ではない。そうではなく、このような権力が可能で、望ましいだろうというのは18世紀の[=ベンサム自身の]考え方であり、…」(26)

『監獄の誕生』の読者は、このテクノロジーがどのように「従順な身体」「従順な精神」そして「従順な社会」を作り出していったかに注目してしまう。この従属化=主体化(assujettissement)を背後から操っているのが、規律=訓練(discipline)というひとつの支配的なイデオロギーであるというわけである。(28)

規律権力が身体を機械化する、というテーゼはフーコーのものではないのだ。(…)行為する身体が機械へと生成し、機械が身体化するような接触面においてこそ、権力は介入し、両者を経済的・政治的に合理的な諸関係に組み込んでいくのである。したがってフーコーが主題化しようとしているのは、テクノロジーによって媒介されながら行為する身体である。(30)

権力が行為主体に働きかけることができるのは、それが「ある可能性の領野」を開くことによってである。(…)権力(=能力、「可能であること」)(pouvoir)の行使は、ある歴史的・制度的・技術的な条件において、可能であったり不可能であったりする行為を規定するような「領野」を切り開くような作用である。(33)
→「可能性の領野(champ)」という表現はメルロポンティの現象学を想起させる。(フッサールの地平概念を引き継いで)(34)

現象学的な領野の記述を外から批判するのではなく、この記述をまさに可能にするような限界地点に立つことで、現象学的な主体を脱中心化すると同時に、そこに主体の変容の場を探るのである。(35)