On Multiple Realities

いろいろ書きます

社会システムと人間

社会的世界の時間構成 

社会的世界の時間構成―社会学的現象学としての社会システム理論

社会的世界の時間構成―社会学的現象学としての社会システム理論

 

 

7章「社会秩序の時間的構成」および8章「社会システムの文化」を読んだが、どうもモヤモヤ感が残る。

 

【抜粋 第7章 社会秩序の時間的構成

*秩序概念

パーソンズの秩序概念:事実的秩序と規範的秩序

 →万人の万人に対する闘争は一種の事実的秩序。これに対して、パーソンズは規範的秩序の可能性条件を問うている。

シュッツの秩序概念:自生的秩序

秩序論としては、一定の規則性をもって成立する事実的秩序・自生的秩序の可能性条件が問われるべき。

*無秩序

無秩序とは完全ランダムな状態。特定の事象が起きやすいことこそが秩序

→確率的なものとしての秩序(無秩序でもなく、[規範の導入による]可能性の消去でもなく)

【抜粋 第8章 社会システムの文化】

*社会の可能性条件としての文化

パーソンズ:文化は意味(情報)の供給源として、社会システムとパーソナリティ・システムを上からコントロールする(285)→強めの文化決定主義(287)

シュッツ:間主観性を生活世界の所与としている。主体たちは社会化と学習を通じてその所属文化の知識を「内面化」しており、ふるまいの同調とまでは言わずとも、それにもとづいて共通の解釈と理解と合意とに達する。「われわれの日常世界ははじめから相互主観的な文化の世界」である。(289)

→多田は文化の捉え方についてパーソンズとシュッツの間で大きな差は無いと見ている

 

【疑問点1】

 第7章第3節以下は、単位行為について扱われている。その中で、270頁においてシュッツが批判されている。多田によると、単位行為の規定における「シュッツの還元主義的な想定は大いに疑義を呈しうる」ものであるという。シュッツは行為の単位を基本的に行為者の持続の中で構成されるものとして考えており、これを多田は「主観主義」的な見方と呼んでいる。しかし、こうした「主観主義」は、「他者と関係する社会的場面での行為の意味は不可避に社会性を帯びる」という点を捉えきれないので、限界があるという。社会的な状況、つまり「二重の偶然性の状況」において、行為の意味は「主観性には還元できない独自の創発水準にある」と考えられねばならないという。「社会学にとって重要なのは、単位行為の『主観的構成』ではなく『社会的構成』のほうだろう」ということである。

→「主観的構成」と「社会的構成」というのが本当に対立させるべき点なのか。体験流における意味構成を論じるシュッツは「主観的構成」であって「社会的構成」ではない、という規定は妥当か。

【疑問点2】

 第8章第1節では、シュッツの文化概念が結局は「文化主義的還元」になっているのではないか、という指摘がなされている。「現象学的社会学は、本来の出発点である主観主義と個人主義を維持するなら、文化的な何かの共有を素朴には前提できないはずであった」(291)にもかかわらず、ということである。(詳細は上記)

→(1)多田はシュッツが「間主観性は超越論的領域において解決されうるような構成の問題ではなく、生活世界の所与性である」(288)と考えている点から、シュッツにおける「文化の共有」をつなげているが、これは正しいのか。シュッツはシェーラー論文において「間主観性のいくつかのレベルを区別することが非常に重要だ」と言っているが、その点はどうなのか。

→(2)文化の共有を自明視する態度は、既に構成された世界に対して向けられるものである。シュッツがcultural patternについて論じる際は、基本的にこのレベルで話をしている。他方で、シュッツはこの世界の構成過程に対しても言及をする。「存在と生成」「生と思考」という区別の重要性。シュッツを読むうえでは、どちらが議論されているのかをしっかり把握しておく必要があるとともに、常に複層的であるということに注意を払う必要がある。したがって、シュッツが文化の共有を自明視する態度によって営まれる社会的世界を記述しているからといって、シュッツが「社会のメカニズムは文化の共有である」と考えているかどうかは分からないのである。

【その他雑感】

社会システムが主体であり観察者であるとは、結局どういうことなのだろうか。社会システムの要素が人間であるということは、それほど重要ではないということなのだろうか。