文献など(一般書含む)
【フランクフルト学派関連】
The Frankfurt School: Its History, Theories, and Political Significance
学派史の定番とのこと。
The Frankfurt School: Its History, Theory and Political Significance
- 作者: Rolf Wiggershaus
- 出版社/メーカー: Polity
- 発売日: 1995/07/05
- メディア: ペーパーバック
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イデオロギーとしての技術と科学
「労働と相互行為」という問題
- 作者: ユルゲンハーバーマス,J¨urgen Habermas,長谷川宏
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2000/10
- メディア: 文庫
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【現象学など】
Sinn und Relevanz: Individuum, Interaktion und gemeinsame Welt als Dimensionen eines sozialen Zusammenhangs
著者はベルリン自由大学出身で、シュッツと西田の哲学をやっているという情報を立ち話で聞いた。
戦後思想の一断面:哲学者廣松渉の軌跡
【その他】
近代日本と「高等遊民」―社会問題化する知識青年層
高等遊民への数々の就職支援が失敗していく様子を記述しているらしい。
相対論の意味
これを読んだら一般相対性理論がわかるようになるのか。(反語)
天皇と東大
存在から発展へ 物理科学における時間と多様性
(原題:From Being to Becoming)
現代議会主義の精神史的状況
Schutz Circle
The International Alfred Schutz Circle for Phenomenology and Interpretive Social Science
http://www.schutzcircle.org
2016年の学会は早稲田大学にて。
締め切りは10月15日です。
文献
フライヤーとヴィーゼに関する本
- 作者: Helene Kleine
- 出版社/メーカー: VS Verlag fuer Sozialwissenschaften
- 発売日: 1989/01/01
- メディア: ペーパーバック
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フーコーの主体化論
・M.フーコーにおける《主体化》の主題
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/handle/11094/10768
・後期フーコー:権力から主体へ
ビオスとは、現実の経験の諸様態、すなわち世界の現出の諸様態として規定される。他方テクネーは、ビオスをエートス(倫理・行為の様態)へと転換する媒体ないしは蝶番である。このテクネーとビオス、あるいは経験と訓練の二重体こそが、制度における主体の変容の可能性の場を指し示す。(15-16)
『監獄の誕生』についてのフーコー自身のコメント「権力の自動性、権力がそこに体現される装置の機械的性格などは、断じてこの本のテーゼ(中略)ではない。そうではなく、このような権力が可能で、望ましいだろうというのは18世紀の[=ベンサム自身の]考え方であり、…」(26)
『監獄の誕生』の読者は、このテクノロジーがどのように「従順な身体」「従順な精神」そして「従順な社会」を作り出していったかに注目してしまう。この従属化=主体化(assujettissement)を背後から操っているのが、規律=訓練(discipline)というひとつの支配的なイデオロギーであるというわけである。(28)
規律権力が身体を機械化する、というテーゼはフーコーのものではないのだ。(…)行為する身体が機械へと生成し、機械が身体化するような接触面においてこそ、権力は介入し、両者を経済的・政治的に合理的な諸関係に組み込んでいくのである。したがってフーコーが主題化しようとしているのは、テクノロジーによって媒介されながら行為する身体である。(30)
権力が行為主体に働きかけることができるのは、それが「ある可能性の領野」を開くことによってである。(…)権力(=能力、「可能であること」)(pouvoir)の行使は、ある歴史的・制度的・技術的な条件において、可能であったり不可能であったりする行為を規定するような「領野」を切り開くような作用である。(33)
→「可能性の領野(champ)」という表現はメルロポンティの現象学を想起させる。(フッサールの地平概念を引き継いで)(34)
現象学的な領野の記述を外から批判するのではなく、この記述をまさに可能にするような限界地点に立つことで、現象学的な主体を脱中心化すると同時に、そこに主体の変容の場を探るのである。(35)
Reading Listの文献
iPhoneでポチっとメモしてそれきりだと忘却してしまう。
『 ネオ・プラグマティズムとは何か』
マーフィー『プラグマティズム入門』
- 作者: ジョンマーフィー,リチャードローティ,John P. Murphy,Richard Rorty,高頭直樹
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2014/11/21
- メディア: 単行本
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"Reflexivity of Actors Versus Reflexivity of Accounts"
Theory, Culture & Society November 1994 11: 161-168
http://tcs.sagepub.com/content/11/4/161.refs
内容はタイトルの通り。
寺前典子(2015)「音楽のコミュニケーションに関する現象学的・社会学的研究」(博士論文)
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=KO10005001-20144147-0003
田中義久 『コミュニケーション理論史研究』
分厚い本でしかも上下巻。上巻が2000年、下巻が2014年となっているのはどういうことなのか?
コミュニケーション理論史研究(下): 記号論からコミュニケーション行為の地平へ
- 作者: 田中義久
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2014/08/31
- メディア: 単行本
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あと、文献ではないが先輩のブログが発見された。
科学論の文献
現代思想のコラムで登場。
『現代物理学にとって実在とは何か』
『ヒトラーの科学者たち』
研究書というよりノンフィクション?
文献メモ
田邊浩先生の著作。ギデンズの構造化理論の批判的検討および時間論を中心に
http://www.h-tanabe.net/works.php
岩崎武雄『カント』
某氏が「三批判書のエッセンスがコンパクトに説明されてる印象」とのコメント。
バスカー『弁証法』
現代思想の新刊案内で見かけた。
『カール・ポランニーの経済学入門』
ツイッターの哲学書新刊情報に掲載。
カール・ポランニーの経済学入門: ポスト新自由主義時代の思想 (平凡社新書)
- 作者: 若森みどり
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2015/08/13
- メディア: 新書
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近代デジタルライブラリー 国家構造論
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267965
【社会学史研究と理論研究】
Gary Alan Fine and Sherryl Kleinman (1986)
Interpreting the sociological classics: can there be a “true” meaning of Mead?
Symbolic Interaction 9(1), 129-146.
http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1525/si.1986.9.1.129/abstract
(※オンライン閲覧不可)
バターフィールド 『ウィッグ史観批判』
Jonesの論文で言及。現在中心的に過去を再構成し「過去は現在の起源である」とする考え方の危険性を論じる。
Robert Alun Jones "The New History of Sociology"
Annual Review of Sociology Vol. 9 (1983), pp. 447-469
http://www.jstor.org/stable/2946074?seq=1#page_scan_tab_contents
Margaret Archer on her relationship with Pierre Bourdieu and his work
中村和生 博士論文
ポスト分析的エスノメソドロジーの展望と展開―科学実践の理解可能性の探究―
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/handle/10723/2289
社会システムと人間
社会的世界の時間構成
7章「社会秩序の時間的構成」および8章「社会システムの文化」を読んだが、どうもモヤモヤ感が残る。
【抜粋 第7章 社会秩序の時間的構成】
*秩序概念
パーソンズの秩序概念:事実的秩序と規範的秩序
→万人の万人に対する闘争は一種の事実的秩序。これに対して、パーソンズは規範的秩序の可能性条件を問うている。
シュッツの秩序概念:自生的秩序
↓
秩序論としては、一定の規則性をもって成立する事実的秩序・自生的秩序の可能性条件が問われるべき。
*無秩序
無秩序とは完全ランダムな状態。特定の事象が起きやすいことこそが秩序
→確率的なものとしての秩序(無秩序でもなく、[規範の導入による]可能性の消去でもなく)
【抜粋 第8章 社会システムの文化】
*社会の可能性条件としての文化
パーソンズ:文化は意味(情報)の供給源として、社会システムとパーソナリティ・システムを上からコントロールする(285)→強めの文化決定主義(287)
シュッツ:間主観性を生活世界の所与としている。主体たちは社会化と学習を通じてその所属文化の知識を「内面化」しており、ふるまいの同調とまでは言わずとも、それにもとづいて共通の解釈と理解と合意とに達する。「われわれの日常世界ははじめから相互主観的な文化の世界」である。(289)
→多田は文化の捉え方についてパーソンズとシュッツの間で大きな差は無いと見ている
【疑問点1】
第7章第3節以下は、単位行為について扱われている。その中で、270頁においてシュッツが批判されている。多田によると、単位行為の規定における「シュッツの還元主義的な想定は大いに疑義を呈しうる」ものであるという。シュッツは行為の単位を基本的に行為者の持続の中で構成されるものとして考えており、これを多田は「主観主義」的な見方と呼んでいる。しかし、こうした「主観主義」は、「他者と関係する社会的場面での行為の意味は不可避に社会性を帯びる」という点を捉えきれないので、限界があるという。社会的な状況、つまり「二重の偶然性の状況」において、行為の意味は「主観性には還元できない独自の創発水準にある」と考えられねばならないという。「社会学にとって重要なのは、単位行為の『主観的構成』ではなく『社会的構成』のほうだろう」ということである。
→「主観的構成」と「社会的構成」というのが本当に対立させるべき点なのか。体験流における意味構成を論じるシュッツは「主観的構成」であって「社会的構成」ではない、という規定は妥当か。
【疑問点2】
第8章第1節では、シュッツの文化概念が結局は「文化主義的還元」になっているのではないか、という指摘がなされている。「現象学的社会学は、本来の出発点である主観主義と個人主義を維持するなら、文化的な何かの共有を素朴には前提できないはずであった」(291)にもかかわらず、ということである。(詳細は上記)
→(1)多田はシュッツが「間主観性は超越論的領域において解決されうるような構成の問題ではなく、生活世界の所与性である」(288)と考えている点から、シュッツにおける「文化の共有」をつなげているが、これは正しいのか。シュッツはシェーラー論文において「間主観性のいくつかのレベルを区別することが非常に重要だ」と言っているが、その点はどうなのか。
→(2)文化の共有を自明視する態度は、既に構成された世界に対して向けられるものである。シュッツがcultural patternについて論じる際は、基本的にこのレベルで話をしている。他方で、シュッツはこの世界の構成過程に対しても言及をする。「存在と生成」「生と思考」という区別の重要性。シュッツを読むうえでは、どちらが議論されているのかをしっかり把握しておく必要があるとともに、常に複層的であるということに注意を払う必要がある。したがって、シュッツが文化の共有を自明視する態度によって営まれる社会的世界を記述しているからといって、シュッツが「社会のメカニズムは文化の共有である」と考えているかどうかは分からないのである。
【その他雑感】
社会システムが主体であり観察者であるとは、結局どういうことなのだろうか。社会システムの要素が人間であるということは、それほど重要ではないということなのだろうか。